桶狭間古戦場跡地 豊明市伝説地あたり その壱
第二回目のお散歩は豊明市桶狭間古戦場伝説地 壱
第二回目のお散歩です。
今回は豊明市の伝説地あたりをうろうろとお散歩してみようと行ってまいりました。
二つの古戦場跡地があると言われますと、どっちが本物なの?と探偵心になってしまいますが、きっとどちらも本当なのではないかと私は思ったりしました。
戦死者3500人以上と言われている戦ですから、桶狭間山一帯で、生きるか死ぬかの戦いをしていたことは想像できます。
やはり、逃げ出したくなる足軽だっていたでしょうし、それを追いかける足軽だっていたことでしょう。
おけはざま山周辺一帯が戦場だったと思われます。
そして「今川義元公はねずの木につないであった馬に乗って逃げようとしたところ間に合わずに討ち取られたんだよねー。」
それを聞いたほうは「桶狭間にあるねずの木かー。このねずの木がそうなんだろうなー。」
ねずの木という目印でそれっぽい場所が二か所ありました。
豊明市桶狭間古戦場伝説地 ねずの木
これであっちだこっちだとなったような気がするたぬきでした。
ごめんなさい、素人の勝手な想像でしかありませんです。
豊明市桶狭間古戦場伝説地 今川義元公のお墓
今川義元公のお墓になります。
明治9年5月に建立されたお墓です。
桶狭間古戦場の石碑をお墓だと勘違いして拝む人がいたために山口正義氏が主唱して建立したものなんだそうです。
私も、お邪魔いたしますと手を合わさせていただきました。
お散歩中に今川義元公のお墓に手を合わせている人は何人もみかけたのでした。
さすが「街道一の弓取り」とよばれた人物ですね。500年たっても手を合わせる人々が訪れているのですから。
豊明市桶狭間古戦場伝説地 一号碑
お墓のすぐ裏手にありますのが七石表のひとつであります一号碑があります。
一号碑とは」今川義元公が討たれた場所を表しているんだそうです。
明和8年に尾張藩士人見弥右衛門桼・赤林孫七郎信之によって建てられたものだそうです。
七石という名の通り残り六石あるのですが、すべて今川軍の戦死した武将の場所を示しているんだそうです。
石碑の後ろに少し見えますお墓は仏式のお墓になります。
仏式のお墓の隣にはお化け地蔵様がありました。
嘉永6年、尾張藩士が建立したものだそうです。
亡霊が現れるとの話があり、お地蔵様を建立したところ亡霊があらわれなくなったそうです。
お地蔵様のお写真は遠慮をさせてもらいました。
七石碑の二号碑は伝説地より道を挟んで反対側にあります。
高徳院にあるんです。
豊明市桶狭間伝説地 高徳院
竹藪のなかにひっそりと二号碑がありまして、その場所には義元とともに戦死した今川家重臣松井宗信のお墓があります。
義元の墓碑と同じく明治9年に山口正義によって建立されました。
こちらも写真は遠慮をしました。
豊明市桶狭間伝説地 今川義元公の本陣跡の石碑
今川義元公の本陣跡の石碑になります。
桶狭間古戦場伝説地になてたかったようですが、許可が下りずに今川義元公の子孫のかたが高徳院に建てられたものだそうです。
史跡巡りのお散歩はまだまだ続きますが、長くなりましたので次にいたします。
長くなりますが、読んであげてくださいませ。
【 信長坂 】信長が奇襲で駆け上がったと言われる坂。その他史跡をお散歩!【桶狭間合戦地その2】