加藤清正公生誕の地、正悦山妙行寺
知れば知るほど、こんなに実直な方がいたんだと驚く加藤清正公の生誕の地、正悦山妙行寺へ行ってまいりました。
名古屋城築城の余材や普請小屋を貰い受けこちら妙行寺を再建したそうです。
清正公で有名なのは
賤ケ岳の合戦で活躍した七本槍の一人として勇敢な若者として名を轟かし、武功をあげたという事でしょうか?
多くのお城や石垣を作った、城つくりの名人としての業績でしょうか?
秀頼公を最後までお守りした誠実さでしょうか?
朝鮮出兵の際にも最前で戦い、友を見捨てず兵糧が尽きても一緒に苦労した誠実さでしょうか?
朝鮮出兵の際に虎退治した話も有名ですよね。
知れば知るほど、調べれば調べるほどすごいお人です。
頭がきれて勇敢で、それでいて誠実で人を裏切らない・・・。
私が知るかぎり、そんなお人、清正公しか知りません。
あたまが下がるばかりです。
熊本でも加藤清正公はせいしょこさんとよばれ、昔も今でも人気が高いそうです。
堤防や河川の改修を行い農民も大事にし、熊本を発展させた業績者だからですね。
清正公は熱心な法華経の信者なんだそうです。
兜の前立もお題目が書いてありますね。
妙行寺で頂いた御首題です。
慶長16年(1611年)3月に二条城で家康と豊臣秀頼との会見に同席し、短剣を懐にしのばせ、いざというときには秀頼公をお守りしようとしたとの逸話が残っています。
人間の心が疲弊している現代。
加藤清正公のようなお人柄をみて、人を信じる心を一瞬でも持ち直したいと切に思います。
大河ドラマ、加藤清正公はいかがなものでしょう???
そんな誠実な人にお会いしてみたい・・・、せめて、ドラマだけでもいいから・・・。
名古屋お立ちよりの際にはこちら妙行寺で清正公の御人柄にふれてみてはいかがでしょうか?
清正公が築城した熊本城、震災で崩れ復興途中ですね。
熊本の復興とともに、熊本城の復興も切に願っております。
豊臣秀吉公の生誕地である太閤山常泉寺
奇跡の蘇り・太閤山常泉寺
奇跡が重なったらもうスピリチュアルになってしまうのでしょうか?
豊臣秀吉公と加藤清正公、親族なだけあってお二人の出生地に作られたお寺はお隣どうしに建てられていました。
私は赤味噌の国に住んでいますが、豊国神社も秀吉公、清正公の出生地に建つお寺があることも知らない人が多くて皆さん知らなかったと驚かれます。
私も三英傑の生まれたのは愛知県という認識はありましたが、出生地はどこにあるのかとは考えなかったので現在まで残されているという事で驚きました。
最初のきっかけは秀吉公の出生地を調べたことでした。
そうかー、中村公園かー、行ってみよう!
お花見がてら娘と遊びにいったのが初めてのことでした。
雰囲気が良いのを覚えておりまして、今回また再びお邪魔させていただきました。
最初にお邪魔したのは太閤山 常泉寺です。
本堂にて御首題を頂こうとお尋ねしたところ、本堂でお話を聞かせていただけることとなり、パンフレットに書いてあるだけでないお話が聞くことができました。
大阪夏の陣で豊臣家が滅亡を迎え、秀吉公を祭る事を禁止されてしまったため、秀吉公は神号をはく奪されたため、お寺や神社は明治時代までは祭る事が出来くなり、江戸時代は秀吉公の功績が語られることすらタブーだったようです。
明治天皇の大阪行幸の際に、豊臣秀吉の名誉回復を宣言し、神号を再び贈られ現在はどうどうとお祭りすることが出来るようになりました。
こちら常泉寺は僧侶の修行場として長い江戸時代を乗り越えてきたそうです。
長い月日を超え、すっかりお寺は荒れ果て、草が背丈より伸び放題であったそうです。
太閤様の銅像も第二次時世界大戦の鉄不足により国に提供されて土台のみがむなしく残っていた状態だったそう。
豊太閤(豊臣秀吉公)産湯の井戸は一度枯れはててしまったり、挙句の果てには本堂が火災によって燃えてしまい、加藤清正公が秀頼公より請い常泉寺に安置された豊太閤の肖像も真っ黒になってしまったそうです。
これでもか、と不運に見舞われたお寺でしたが・・・、そのたびにすべてが生まれかわると言いましょうか、蘇ったとお寺の方がお話になられていました。
一生懸命真っ黒になった御像を拝んでいたところ・・・。
本堂は「私は秀吉公に助けられました。」そうおっしゃる方が声を上げてくださり、立派な本堂が再建されました。
本当に立派な本堂です。
井戸も再現を試みた所、清水が戻りました。
お寺の名前の由来でもあります、常に湧く泉のお寺、常泉寺。
コンコンと清水が湧き出ていました。
銅像の土台を見て「これはなんでしょうか?」そう尋ねられたご婦人が再び豊太閤の像を再建してくださったそうです。
こちらの御像も蘇りました。
以前の御像の土台もまだ境内に残っていました。
こちらは秀吉公お手植えの柊です。
1590年の小田原征伐の帰りに秀吉公一行が立ち寄った際、加藤清正公と小早川隆景公にこの柊は自分が11歳の時に植えたものだとお話になったそうです。
この柊も枯れそうになっては下枝が伸び続け現在は五代目が育っているそうです。
加藤清正公が秀頼公に請い、安置されたものの、火災によって真っ黒になってしまった豊太閤の肖像は・・・
綺麗に修復されております。
本当に優しい表情で御安置されておりました。
常泉寺のお寺は歴史を知れば知るほど奇跡のお寺と表現させていただきたいお寺でした。
実際に目で御像や井戸、柊に銅像、お話を聞いた後に見直しますと、感動もひときわでした。
愛知県、名古屋市をお立ちよりの際には天下を収め、足軽から関白まで上り詰めた秀吉公に会いに来てみてほしいと思います。
「よおきたね!」人たらしと言われた太閤様がお迎えしてくださるかもしれませんよ?
次はだれもが憧れる人徳者、加藤清正公の出生地のお寺ですが
長くなりましたので、次回にいたします。
第4弾の動画編集が終わって思う事
やっと動画編集が終わりブログが書けます。
ちょっとだけ歴史の逸話を知っているだけで知ったような気になる私がいざ編集をしてみるとこんなに無知だったと思い知らされるのです。
若いうちからもっと勉強をしておけばよかったと思い知らされる毎日です。
最近痛感していることがあります。
本をたくさん読むべきだったと。
理由は自分の語彙力がない事を日々感じるからなんです。
本は知識をくれるだけでなく、他人の考え方を知ることができるますよね。
親しい人との間でも、人の考え方って本当にわからないものだと私は思っているんですね。
腹の中はわからないというと聞こえがわるいでしょうか?(笑)
でも本の作者はきちんと自分の意見を話してくれます。
対人関係では普通はあり得ない事なんだと思います。
私は若い時はテレビで情報垂れ流しの中にいました。
テレビの音がついてないと落ち着かないというテレビ中毒ですよね。
今は動画編集をしたりブログを書いているときは無音のほうが落ち着いて作業しやすいですね。
娘も受験生だし、いい事だと思ってます。
でも、ユーチューブでためになるものは食いついてみてしまって時間を忘れるほど見入ってしまうという事が時々あって、反省したりもしています。
動画編集に入ると本当に日々時間がなくて、本がじっくり読む時間があまりないですね。
私は何か物事をするときには集中して他に煩わされることなくやってしまいたい人間なんですよね。
主婦(夫)の皆さんは共感していただけると思うのですが、家事って集中したい時間を細切れにしてしまいませんか?
朝昼晩の食事作りですでに3回の時間の細切れがあり、食器のかたずけから洗濯、掃除、洗濯の取り込み、お風呂の支度・・・・。
時間をブチブチと細切れしまくられます。
昔から感じていることですが・・・(笑)
細切れの時間を埋めるのには実はテレビが一番埋めやすかったんです。
テレビをみて自分のことでもないのにテレビの中の人と一緒に怒ったりして、怒り=ストレスという認識がなかった私は関係のないことで怒ってストレスを勝手にため込んでいました。
本当にあほだったなーと思います。
たぬき夫婦は、とくにたぬき旦那はなーんにも考えてなかったアホ人間でしたので、沢山しっぱいをしてきました。
こんなあほあほ夫婦に考えさせることができてきたのは介護と育児と対人関係と歴史だったと思います。
若い皆さん方が私たちのように失敗しないように介護の話や育児の話もしていきたいと思っています。
皆さんは後悔は少なく生きてください。
次は第四回のお散歩のお話をしていきます。
豊臣秀吉公、天下人、編集しながら本当に人生を考えさせられました。
農民から関白まで上っていった秀吉公、どんなお人柄だったのか迷い考えながら動画編集をしました。
加藤清正公の人を思い、自分に厳しいその実直さ、尊敬せざるおえませんでした。
それではまた次回に!!
暗黒の襖!■主婦ネタ行きます■
初主婦ネタおつきあいください♪
みなさん、ゴールデンウィークはいかがでしたか?
私はしっかり家に引きこもってゴロゴロしておりました。
普段仕事と家事で忙しいので、時間に追われるのが少ない休みには動画編集をしたり、普段できない家事をしたりゆっくり休んでおりました。
そうそう、襖も張り替えたりしました。
また別でもお話しできればと思うのですが、たぬき夫婦が煙草を吸っていた時代。
壁紙もよろしい状態ではなくなって行きます。やがて禁煙も成功し、壁紙をDIYで塗りなおしをしました。
問題となる暗黒の襖は、生前にたぬき旦那のおばあちゃんが使っていた部屋のもので、よくあるリビングと続く形で部屋があるので、リビング側は壁紙の塗りなおしの際に一緒に塗装をしてそこそこ綺麗になったのでした。
しかし、和室側の襖はというと。。。。。。。
様々な汚れが集合体と化した、暗黒の襖であった!
なぜそうなったか?わからないぐらいの汚れ。
襖も、手をかけるところ以外に触れて開け閉めをしていたようで、至る所に手垢と穴あきなどがあったんですね。
いくら何でもこれはいけないって、今回のGWを機にDIY!
一生懸命張ってみたのですが、シワシワに出来上がりました・・・。
まあ、暗黒よりは100倍ましですのでそのままにしておきますw
家族のかたち・同居するということは大変!
主人のおばあちゃんは少し変わった人でした。
自分が一番の人でして、都合がいいように人を操ろうとするような人でした。
ちょうど子育て真っ盛りだったたぬきにとてつもなくダメージを毎日与え続ける天才でもありました。
今思い返しますと、私良く生きてるなーと我ながら感心いたします。
家事が嫌いで依存心の高いおばあちゃんは涙ながらに同居を求め、好き勝手やり残して旅立ちました。
興味のある方がいましたら、襖ではなく、たぬきの暗黒年表でも、またお話いたしましょうw
ゴールデンウィークに中村公園にいってまいりました。
いろいろ調べているうちに私がどれほど無知だったのか知らされました。
実は撮影をかねて取り忘れなどを繰り返して何度もお邪魔しているのですが・・・。
豊国神社の令和記念の御朱印もいただけました^^
不思議なご縁で勉強させていただきました豊臣秀吉公出生の場所であります中村公園近くにあります 「太閤山 常泉寺」の動画とお話もまたさせていただております。
先に、豊国神社のお散歩動画をアップいたしましたので、よかったらご覧ください。
最後までお読みいただきありがとうございます。
読者登録のほうもよろしくお願いいたします♪
太閤秀吉公出生の地
今回は名古屋市中村区にあります、中村公園にお散歩にまいりましたー!
いつもながら、撮影をやり直したり、一体何回行ったことでしょう?
私の周りだけかもしれませんが、名古屋市住なのに中村で豊臣秀吉公がお生まれになったことを知らない人が多くて驚きます。
中村公園はます、大鳥居が印象的ですよね。
立派な大鳥居ですね。
ビルと比べるとその大きさが際立ちます。
明治時代に明治天皇によって豊臣秀吉の名誉回復を宣言され、神号を贈られ豊臣秀吉公を再び祭ることが許されました。
大阪夏の陣の後、神号をはく奪され江戸時代は秀吉公を祭ることができなかったそうで、現在大鳥居が作られ、どうどうと秀吉公にお会いすることができるのは時代の変化なんですね。
豊国神社です。
長い長い冬の時代が終わり、沢山の参拝者がひっきりなしにお参りしています。
私も秀吉公のように、人たらしになってみたいと思ったりしています。
出世街道まっしぐらの時の秀吉公は一度会ってしまうと好きにならずにはいられない人物だと何かで読みました。
秀吉公のエピソードの中で一番忘れられない事です。
人に嫌な思いをさせない、気分良く楽しくなってもらえる。
そんなことができたら天下だってとれてしまうのは必然ではないでしょうか?
温厚そうにみえるのに眼光が鋭い人ってたまにいますが、私のイメージの秀吉公はまさしくそんな感じに思えています。
摂社は加藤清正公です。
最後の最後まで豊臣家を守ろうとした人です。
忠義を忘れない、それは人間としてものすごく素晴らしい事ですよね。
豊臣秀長公と加藤清正公がもう少し長生きをしていたら、歴史にもしかしたらはナンセンスですが、江戸時代はもしかしたらなかったのかもしれませんね。
歴史の面白さ、人が歴史を作る・・・。
本当にそのままなのかもしれません。
太閤のしだれ桜
京都醍醐寺で行われた盛大なお花見。
慶長3年(1598)に奈良吉野山から桜700本も移植しお茶の心得のあるものには身分を問わず参加資格をあたえ行われたそうです。
そんな盛大に行われたお花見の桜の子孫である樹齢150年のしだれ桜のクローン桜が植えられていました。
淡いピンクが綺麗ですね。
私も桜が大好きです。
吉野の千本桜も見たことがありますが、本当に見事でした。
中村公園史跡がじつはまだまだたくさんあります。
お時間がありましたら詳しくは動画をみてみてください。
こんなに史跡のつまった公園が無料で見ることができるなんて・・・
やっぱり名古屋は太っ腹ですよね^^
お近くにお住まいでしたらお子さんと勉強と堅苦しい事は言わず、秀吉公と清正公に会いにいってみてはいかがですか?
中村公園プラザでは2階に秀吉清正記念館もあります。
なんと!!!!!!無料ではいれるんです。これもまたびっくりです。
長くなりましたので再び続きます。
【 太閤秀吉 】巨大な鳥居の先にまつ、秀吉公誕生の地【 中村公園 】
暗黒の襖!■主婦ネタ行きます■ - たぬきのお散歩 歴史・史跡を訪ねる♪(時々主婦ネタ) https://t.co/BNsf9FPNuT
— HAPPYたぬき (@happytanuki0114) 2019年5月6日
桶狭間古戦場跡地 豊明市伝説地あたり その弐
豊明市桶狭間古戦場伝説地のおさんぽ その弐
お散歩の続きを早速まいります。
高徳院を出発して坂道をひたすら登っていきました。
運動不足にはこたえる緩やかに長く続く坂道ー。
近所のかたに次の史跡の場所を訪ねるけれども皆さん知らないようで、無事にたどり着けるのか不安でした。
しばらく登って坂道が終わり郵便局もこえてもうしばらくいくと、こんな電柱がみえました。
すぐそこ、らしいので迷いつつ公園に近寄ってみますと・・・。
豊明市桶狭間古戦場伝説地 鷺之森石碑
本当にありましたー。
そして想像よりめちゃ小さい・・・。
この碑を作ったのもやはり山口正義氏だそうです。
織田信長公が熱田神宮で戦勝祈願をしたところ、白鷲が二羽社殿より飛び立ち、今川義元公の休憩していた場所近くの森に舞い降りたそうです。
桶狭間の合戦が戦勝したことにより建てられたのが、熱田神宮にあります信長塀なんだそうです。
熱田神宮は白鳥伝説の場所ですから、なんだかドキドキしてしまうしょうな伝説です。
次におとずれたのは。。。。
豊明市桶狭間古戦場伝説地 よろいかけの松の旧地の石碑
名鉄中京競馬場前駅の南口出口近くにあります、有料駐車場からみれました。
ここも到着まで迷いまして・・まさか止めてあった駐車場から見れたとは・・・。
駐車場ですから車にお気を付けください。
ですが、国道一号線からも見る事が実はできました。すこし遠いですがそのほうが安全ですね。
織田信長公の鎧かけ言われているようですが、私が資料を探していると大正時代の絵葉書に今川義元公の鎧がけの松というのを発見しまして、もう混乱しかない状態です。
続きましてはこちらへ移動しました。
豊明市桶狭間古戦場伝説地 釜ヶ谷
善照寺砦に千の兵を残し、旗をいっぱい掲げさせてまるで本陣がここであるように見せかけた信長公は、残り二千の兵を率いてこの釜ケ谷までやってきました。
おけはざま山からは晴天でしたら二千の兵が移動するのはきっと丸見えだったのではないかと思います、ところが・・・雷雨が激しく降り注いでいたらしく、馬のヒヅメの音もかき消されたのでしょう。
そこからは今川本陣に突撃ということになります。
その際に織田軍がかけあがった場所が、、、、。
豊明市桶狭間古戦場伝説地 信長坂
現在では名古屋短期大学、桜花学園大学の敷地内となっています。
私はどうしてもこの坂にのぼりたくて、平日に連絡をとり、お願いして撮影許可とともにお願いしておりました。
快く快諾くださり、この場所に来ることができました。
ありがたい限りです。
さて、今回の旅のメインイベントです。
ゆっくりと登ってみました。
感無量です。はぁ・・・幸せです。
この後、今川義元公が討たれ、今川軍は鳴海城も調略され大高城からも逃げ出すことになったのですね。世紀の逆転劇の場所だとやはりおもわれますね。
今回のお散歩、とても大満足でした。
動画のほうではグルメも回っておりますので、よかったら見てやってください。
【 信長坂 】信長が奇襲で駆け上がったと言われる坂。その他史跡をお散歩!【桶狭間合戦地その2】
桶狭間古戦場跡地 豊明市伝説地あたり その壱
第二回目のお散歩は豊明市桶狭間古戦場伝説地 壱
第二回目のお散歩です。
今回は豊明市の伝説地あたりをうろうろとお散歩してみようと行ってまいりました。
二つの古戦場跡地があると言われますと、どっちが本物なの?と探偵心になってしまいますが、きっとどちらも本当なのではないかと私は思ったりしました。
戦死者3500人以上と言われている戦ですから、桶狭間山一帯で、生きるか死ぬかの戦いをしていたことは想像できます。
やはり、逃げ出したくなる足軽だっていたでしょうし、それを追いかける足軽だっていたことでしょう。
おけはざま山周辺一帯が戦場だったと思われます。
そして「今川義元公はねずの木につないであった馬に乗って逃げようとしたところ間に合わずに討ち取られたんだよねー。」
それを聞いたほうは「桶狭間にあるねずの木かー。このねずの木がそうなんだろうなー。」
ねずの木という目印でそれっぽい場所が二か所ありました。
豊明市桶狭間古戦場伝説地 ねずの木
これであっちだこっちだとなったような気がするたぬきでした。
ごめんなさい、素人の勝手な想像でしかありませんです。
豊明市桶狭間古戦場伝説地 今川義元公のお墓
今川義元公のお墓になります。
明治9年5月に建立されたお墓です。
桶狭間古戦場の石碑をお墓だと勘違いして拝む人がいたために山口正義氏が主唱して建立したものなんだそうです。
私も、お邪魔いたしますと手を合わさせていただきました。
お散歩中に今川義元公のお墓に手を合わせている人は何人もみかけたのでした。
さすが「街道一の弓取り」とよばれた人物ですね。500年たっても手を合わせる人々が訪れているのですから。
豊明市桶狭間古戦場伝説地 一号碑
お墓のすぐ裏手にありますのが七石表のひとつであります一号碑があります。
一号碑とは」今川義元公が討たれた場所を表しているんだそうです。
明和8年に尾張藩士人見弥右衛門桼・赤林孫七郎信之によって建てられたものだそうです。
七石という名の通り残り六石あるのですが、すべて今川軍の戦死した武将の場所を示しているんだそうです。
石碑の後ろに少し見えますお墓は仏式のお墓になります。
仏式のお墓の隣にはお化け地蔵様がありました。
嘉永6年、尾張藩士が建立したものだそうです。
亡霊が現れるとの話があり、お地蔵様を建立したところ亡霊があらわれなくなったそうです。
お地蔵様のお写真は遠慮をさせてもらいました。
七石碑の二号碑は伝説地より道を挟んで反対側にあります。
高徳院にあるんです。
豊明市桶狭間伝説地 高徳院
竹藪のなかにひっそりと二号碑がありまして、その場所には義元とともに戦死した今川家重臣松井宗信のお墓があります。
義元の墓碑と同じく明治9年に山口正義によって建立されました。
こちらも写真は遠慮をしました。
豊明市桶狭間伝説地 今川義元公の本陣跡の石碑
今川義元公の本陣跡の石碑になります。
桶狭間古戦場伝説地になてたかったようですが、許可が下りずに今川義元公の子孫のかたが高徳院に建てられたものだそうです。
史跡巡りのお散歩はまだまだ続きますが、長くなりましたので次にいたします。
長くなりますが、読んであげてくださいませ。
【 信長坂 】信長が奇襲で駆け上がったと言われる坂。その他史跡をお散歩!【桶狭間合戦地その2】