豊臣秀吉公の生誕地である太閤山常泉寺
奇跡の蘇り・太閤山常泉寺
奇跡が重なったらもうスピリチュアルになってしまうのでしょうか?
豊臣秀吉公と加藤清正公、親族なだけあってお二人の出生地に作られたお寺はお隣どうしに建てられていました。
私は赤味噌の国に住んでいますが、豊国神社も秀吉公、清正公の出生地に建つお寺があることも知らない人が多くて皆さん知らなかったと驚かれます。
私も三英傑の生まれたのは愛知県という認識はありましたが、出生地はどこにあるのかとは考えなかったので現在まで残されているという事で驚きました。
最初のきっかけは秀吉公の出生地を調べたことでした。
そうかー、中村公園かー、行ってみよう!
お花見がてら娘と遊びにいったのが初めてのことでした。
雰囲気が良いのを覚えておりまして、今回また再びお邪魔させていただきました。
最初にお邪魔したのは太閤山 常泉寺です。
本堂にて御首題を頂こうとお尋ねしたところ、本堂でお話を聞かせていただけることとなり、パンフレットに書いてあるだけでないお話が聞くことができました。
大阪夏の陣で豊臣家が滅亡を迎え、秀吉公を祭る事を禁止されてしまったため、秀吉公は神号をはく奪されたため、お寺や神社は明治時代までは祭る事が出来くなり、江戸時代は秀吉公の功績が語られることすらタブーだったようです。
明治天皇の大阪行幸の際に、豊臣秀吉の名誉回復を宣言し、神号を再び贈られ現在はどうどうとお祭りすることが出来るようになりました。
こちら常泉寺は僧侶の修行場として長い江戸時代を乗り越えてきたそうです。
長い月日を超え、すっかりお寺は荒れ果て、草が背丈より伸び放題であったそうです。
太閤様の銅像も第二次時世界大戦の鉄不足により国に提供されて土台のみがむなしく残っていた状態だったそう。
豊太閤(豊臣秀吉公)産湯の井戸は一度枯れはててしまったり、挙句の果てには本堂が火災によって燃えてしまい、加藤清正公が秀頼公より請い常泉寺に安置された豊太閤の肖像も真っ黒になってしまったそうです。
これでもか、と不運に見舞われたお寺でしたが・・・、そのたびにすべてが生まれかわると言いましょうか、蘇ったとお寺の方がお話になられていました。
一生懸命真っ黒になった御像を拝んでいたところ・・・。
本堂は「私は秀吉公に助けられました。」そうおっしゃる方が声を上げてくださり、立派な本堂が再建されました。
本当に立派な本堂です。
井戸も再現を試みた所、清水が戻りました。
お寺の名前の由来でもあります、常に湧く泉のお寺、常泉寺。
コンコンと清水が湧き出ていました。
銅像の土台を見て「これはなんでしょうか?」そう尋ねられたご婦人が再び豊太閤の像を再建してくださったそうです。
こちらの御像も蘇りました。
以前の御像の土台もまだ境内に残っていました。
こちらは秀吉公お手植えの柊です。
1590年の小田原征伐の帰りに秀吉公一行が立ち寄った際、加藤清正公と小早川隆景公にこの柊は自分が11歳の時に植えたものだとお話になったそうです。
この柊も枯れそうになっては下枝が伸び続け現在は五代目が育っているそうです。
加藤清正公が秀頼公に請い、安置されたものの、火災によって真っ黒になってしまった豊太閤の肖像は・・・
綺麗に修復されております。
本当に優しい表情で御安置されておりました。
常泉寺のお寺は歴史を知れば知るほど奇跡のお寺と表現させていただきたいお寺でした。
実際に目で御像や井戸、柊に銅像、お話を聞いた後に見直しますと、感動もひときわでした。
愛知県、名古屋市をお立ちよりの際には天下を収め、足軽から関白まで上り詰めた秀吉公に会いに来てみてほしいと思います。
「よおきたね!」人たらしと言われた太閤様がお迎えしてくださるかもしれませんよ?
次はだれもが憧れる人徳者、加藤清正公の出生地のお寺ですが
長くなりましたので、次回にいたします。